中島 淳
福岡県保健環境研究所 専門研究員
私の職場である福岡県保健環境研究所では,1件1,920円(2023年4月現在)で「害虫の同定を行う」という窓口検査を行っている。実際に窓口まで持ち込まれたもののみの対応となるが,そうした依頼があれば可能なレベルまでの種の同定を行い,簡単な解説文とともに同定結果を公文書として発行する行政サービスである。本検査は「同定」をするだけであるが,それでは同定して種名がわかるだけで問題が解決するのか?と疑問に思う方もいるかもしれない。しかし,種の同定は害虫の問題解決の上でもっとも重要な部分なのである。
ある時に、近郊のとある市役所から「コバエ」が大発生して困っているということで虫体の同定依頼があった。調べてみると,その「コバエ」はクロバネキノコバエの一種であった。業界の方ならご存知の通り,本種は腐朽した植物質で幼虫が育ち,植木鉢などで大発生する。そこで,市役所内に植木鉢などはないか?と尋ねたところ、確かにたくさんの植木鉢があるとのことであった。そこを中心に対策を行ったところ、「コバエ」の発生は収まったそうである。クロバネキノコバエの仲間は専門家以外には種レベルまでの同定は難しいが,大まかなグループがわかるだけでも問題解決につながる一例である。
一般的に「コバエ」として持ち込まれるものは,クロバネキノコバエ類の他に,ノミバエ類やショウジョウバエ類,場合によってはユスリカ類だったりトビケラ類だったりすることもある。もしノミバエ類であれば肉類が発生源だし,ショウジョウバエ類であれば果物類が発生源である。また,ユスリカ類であれば富栄養な水路などが発生源,トビケラ類だと・・・とにかく周囲に何らかの川や水路があるのは間違いないことまではわかる。つまり、一口に「コバエ」と言ってもその種類は様々であり,当然その生活史も様々であるから,効果的な対策も様々なのである。そして,もっとも最適な対策をとる上で重要な基盤が,正確な種同定,ということになる。
害虫というと、わりと過去の時代のものという印象があるかもしれないが,当所では年間30~60件ほどの同定依頼が毎年来ており,「害虫」はまだまだ身近なところで何らかの問題を起こしている。このうち問題としてもっとも大きいのは「食品混入」である。日本では衛生環境の向上から身近な昆虫が減ってきたこともあり,異物として昆虫が食品に混入することは多くの人にとってはあまり想定されていないようで,普段から昆虫が好きで研究をしている我々が予想する以上に衝撃を与える「事件」になり得る。こうした食品混入には事故的に混入しているものと(例えばコアシナガバチなど),必然的に混入しているもの(例えばハウカクムネホソヒラタムシなど)があり,やはり正確な種同定は,確実な問題解決につながるものとなっている。
以上,正確な種同定がいかに害虫の問題を解決するのかについて解説してみたが,正確な種同定を行う上では,何よりも分類学が必須である。近年,生物学の中でも分類学を志す人が減り,また,分類学者が在籍している大学等の研究機関も減っているという状況を見聞きする。非常に残念な事態である。日本国内からも毎年のように多くの新種・新記録種が報告され,正確な種同定を行うための研究はまだまだ必要な状況である。分類学は生物学のみならず,社会のインフラをつくる非常に重要な学問であり,近年社会的課題として重要度を増している「生物多様性保全」を確実に進めていく上でも必要不可欠な知識を与える。
自ら分類学を行わないまでも、正確な種同定を行うことができる,正確なリストを作成することができる,あるいは空き時間に隙あらば図鑑を眺めることがやめられない,といった分類学的な素養のある人材は今後,その重要度が増していくことは間違いない。生物の分類に興味を持つ人が少しでも増えていけばと願っている。