息抜きこらむ

虫を飼うような仕事

後出 秀聡
日本液炭株式会社


 最初にお断りしておきますが私の所属している日本液炭はおもに炭酸ガスを製造販売している産業ガスの会社です。
 炭酸ガスは比較的新しい用途として,害虫防除として使われるようになってきています。炭酸ガスが人体に比較的安全で対象物に与える影響も少なく,また残留性もないという特徴を利用して文化財の虫害の殺虫以外にも農薬用途や食品の害虫の駆除に利用されています。
 炭酸ガスを供給できる産業ガスのメーカーは数社ありますが,日本液炭はこの生物被害防除の分野において他のメーカーにはない技術をもっています。
 弊社は炭酸ガス以外にも殺虫殺カビ効果があるくん蒸剤「エキヒュームS」も供給しています。加えると,ご年配の会員の方はご存知だと思いますが,かつては「エキボン」(臭化メチルと酸化エチレンの混合ガス)という文化財用のくん蒸剤も製造販売させていただいていました。それらを併せると私たちと文化財保護活動とのかかわりの歴史はおよそ40年になります。
 これだけの長きにわたって文化財の生物被害の防除に携わっていると「門前の小僧ならわぬ経を読む」というたとえがあるように自然と生物防除の知識や経験が蓄積されていきます。
 その結果,産業ガスのメーカーであるにも拘らず当たり前のように虫やカビを扱った試験ができるようになり,特に虫については種類や数は多くないものの,試験用として自社で飼育するようになりました。
 一言で虫の飼育や試験といっても,なかなか一筋縄ではできません。まず,対象とする虫の飼育方法や試験方法に関する情報が少ない。微生物の試験であれば,試験方法が確立されています。培養法についてもよく研究され,培地などの必要な資材も市販品が簡単に手に入ります。
 一方,虫については一部のメジャーな害虫を除いて飼育法や試験法に関する情報が少なく,たとえ文献があっても,そこに載っている道具は自作されていたりして,簡単に手に入らなかったりします。
 飼育法も文献ではなく,同じような虫を飼育している先生から聞いて,ひたすらトライ&エラーで経験をつんでいくことになります。
 また,飼育の目的はあくまで試験に使うわけですから,「とりあえず生きていればどんな状態でもいい」というわけにはいきません。いつでも同じように健康な状態の虫が必要になります。
 しかし,相手は生き物ですから,急に調子を落としたり卵を産まなくなったり,最悪の場合は全部死んでしまったりします。実験動物を扱う仕事はすべて同じだと思いますが,虫を取り扱う試験をする仕事=虫を飼うような仕事だといえます。
 結局,虫に調子良く過ごしてもらう為には日々の努力以外の何ものでもないのです。コツをつかみスムーズにいっていれば虫の飼育はそれほど困難な作業にはならず,週に1度の作業程度で終えることができます。
 一方,虫を飼う,ということはその虫の生態を知ることでもあります。その虫がどんな風に文化財を加害するのか,どんなところで冬を越し,どんな環境を好み,どんな環境を好まないかを知ることができれば防除の現場で役に立つこともしばしばあります。
 これは私の夢なのですが,文化財害虫辞典に記載されているうちの一種類でも多くの虫を飼育して,その生態を知り,文化財の被害防除に役立ててみたいと思っています。