息抜きこらむ

10年を振り返って ~定期燻蒸処理から文化財IPMへ

吉川 博幸
株式会社明治クリックス


 義父である先代の社長が亡くなるとほぼ同時に明治クリックスを引き継ぎ,文化財保存の世界に入った。この10年あまりは文化財保存のあり方も燻蒸を生業にしてきた多くの企業にとっても激動の時代であったと思う。迷いながら歩んできたこの10年あまりを振り返ってみたい。
 思い起こすと,この間に最も大きな課題となったのは博物館・美術館・資料館・文書館などの収蔵品や文化財建造物の虫菌害防除の手法の,燻蒸からIPMへの転換ではなかったかと思う。
 今ではIPMと燻蒸処理とは単純な対立関係にあるのではなく相互に補い合う関係にあることが広く認識されているが,当初文化財IPMの話を聞いたときは,“燻蒸は悪で可及的速やかに見直すべし”ということだという認識があったと思う。その頃の燻蒸は概ね定期燻蒸だったので,そのような認識につながったのではないかと考える。一方IPMに関しては“文化財IPMとは環境調査の事で,すなわちトラップ調査のことなり”くらいの認識しかなかった。だから“みんなが燻蒸を止めてトラップ調査に換えるのは良いけど,万一ムシやカビが出ても予算はもうないがその時はどうするんだろう? 誰が責任を負えるのだろう?”そう考えていた業者は弊社だけではないと思う。その中で,軸足をあくまでも燻蒸に置くのか文化財IPMに置いたらいいのか頭を悩ます日が続いた。
 そんな時と前後して同業者の中毒事故が起きた。大きな中毒事故はこの10年余りの間に2件発生したと聞いている。文化財を保存するために関係者の健康やまして生命が失われるなどあってはならない。2つの事故が“定期燻蒸の見直し”に大きく影響を与えたのは間違いないと思う。
 このような中にあって,当時の文化財虫害研究所(現在「文化財虫菌害研究所」)が独立行政法人国立文化財機構の東京文化財研究所,九州国立博物館とともに文化財IPMの具体的な在り方の普及に努力されたことはまことに時宜を得たものであったと思う。同研究所の各種の研修,九州国立博物館のミュージアムIPMの講義や実技研修に参加することによって,それまでの燻蒸とIPMに関する疑念が払拭され文化財IPMへの理解を飛躍的に進めてくれたし,九博のボランティア活動に触れることは“保存のプロとは何か?専門業者はいかにあるべきか?”を考える良い機会になった。文化財IPMについては,さらに「文化財IPMコーディネータ」資格も設けられ,IPM業務を担当する人の位置付けも形の見えるものになった。
 虫菌害の防除は,文化財などの置かれている環境全体の適確な把握とその中で必要となる被害防止のための日常的なメンテナンスを中核としつつ,もし被害が出てしまった場合は適正な燻蒸処理を行うという2つの方法を合理的に組み合わせて進められるということは,いまや博物館等の施主側と防除事業者側に共通する知識として広く定着している。
 当社も“燻蒸処理業者”から文化財IPMの考え方を軸にした“文化財保存業者”へと立ち位置を転換するに至っている。現在,弊社における文化財関係の売上全体の中で燻蒸業務が行われる場面に注目して見ると,「燻蒸以外の業務」が占める割合が58 . 1 %,「燻蒸業務」が占める割合は40 . 9 %となっている。さらに「燻蒸業務」中に定期燻蒸分が占める割合は8 . 3 %,定期燻蒸は文化財全体の中で3 . 4 %に過ぎない。多くは“被害が発生してしまっているからやむなくガスを使用している”のでありIPMによる防除の基本に沿っているものであることを示している。
 「文化財の虫菌害」の前号(2018年12月号)に登載されている,文化庁による文化財保護法改正とそれによる新しい文化財保護の在り方展望によると,平成31年4月から施行される新しい制度では,国・地方公共団体による文化財指定の有無に関わらずすべての文化財の“掘り起こし”が進み,それによって新たに保護の対象になる文化財は膨大な量になることが想定され,それらについて「保存」と「活用」が進むことになりそうである。「保存」における虫・カビ害の問題は大きいし「活用」のための移動・展示などには文化財の置かれる環境を適正に維持することが不可欠である。それらの課題への対処を主として市町村が担当することになるので,その実務・事業に当たる部分については我々“文化財保存業者”が一定の役割を占めることができるのではないかと考えている。
 そのような事業展開を想定すると,文化財IPMには次の段階があっても良いのではないかと思えてくる。たとえば地方公共団体や博物館等の学芸員と防除事業者の技術者の両方がかかえる課題と対処法を理解・調整できるIPMマネージャーの創設,IPMメンテナンス関連の新製品開発,文化財IPMのアジア市場での展開などである。単独1社だけでは実現が難しいことが多いが将来的な課題としてどこかで検討してもらいたいと思う。
 最後になってしまったが,この10年を無事乗り越えてこられたことを皆様に感謝したい。多くの方々に支えられていることを忘れずに文化財の保存業を極め,いつかは当社のメンバー全員が「博物館のお医者さんたち」と言われるような存在になりたいと思っている。