息抜きこらむ

カタツムリとバイオミメティクス

岩田泰幸
公益財団法人 文化財虫菌害研究所


 梅雨に関連したこととして,カタツムリと最新科学の関わりについて紹介してみたい。
 カタツムリがどういった姿かたちをしている生き物かということについては,ほとんどの方がご存じだと思う。まずは,生物としてのカタツムリの基本的なことについて整理してみよう。カタツムリというのは陸上で生活する巻貝の総称である。分類学的にまとまったグループではなく,その中には様々な巻貝のグループが含まれている。カタツムリは移動範囲が狭く,山や乾燥地,河川などを越えて分布を広げることが難しいため,各地で種分化し地域に特有の種類が見られる。また,多くの種類は乾燥に弱く,湿気が高く通気のよい環境を好むので,梅雨時には特に活発に活動する。しとしとと降る雨の中,アジサイの上をカタツムリが這い回る情景は,日本人ならば誰しもすぐに想像できる梅雨の一幕だろう。


 今回はそんなカタツムリの殻にクローズアップしてみたい。そこに絡む物理の話である。カタツムリの殻は,常にピカピカで容易に汚れない。例えば,一度付着した有機的な汚れ(油分など)を落とすことは一般的には洗剤や薬品を使わないと難しいといわれているが,カタツムリの殻では水だけで油汚れを簡単に洗い流すことができる。
 その理由を調べるために電子顕微鏡を使ってみよう。殻の表面を高倍率で観察してみると,小さいものでは数十ナノメートルという極めて微細な溝が殻の表面に縦横無尽に走っていることが分かる。この溝には空気中から集められた水分が常に保水されており,殻の表面は非常に薄い水の膜で覆われた状態にあるといえる。そのような状態の殻に汚れの元になる物質が触れた時,汚れは殻に直接「くっつく」のではなく,水膜の上に「乗っかる」ことになる。ここでさらに水を加えると,汚れの下に水が入り込み,殻から汚れが完全に浮き上がる。そして,水の流れ(運動)によって簡単に流れ落ちてしまう。
 実際にカタツムリ(特に生きているもの)が手に入るようであれば,次のような実験ができるのでお試しいただくのも一興だろう。方法は実に簡単なもので,カタツムリの殻に油性ペン(マジック)で落書きをした後に水で洗い流してみるだけである。容易に落ちないはずの油性ペンの落書きが,水をかけ流し少しこすってみると,浮き上がり脱落するという。ちなみに,空の殻(死んだもの)を使うと,表面の構造が劣化してすり減っていたり,極度に乾燥したりしていることがあるため,実験が失敗する可能性もある。


 こうした殻の構造と汚れを落とす仕組みに着目した建材メーカーが,雨が降れば汚れがきれいに落ちる外壁材を開発しており,これは既に実用化されている。外壁汚れの代表的な原因の一つとして排気ガス等に含まれる油分に塵や埃が付着した黒ずみが挙げられるが,カタツムリの殻の表面構造を模倣することにより,こうした汚れを水だけできれいに落とすことができるようになった。洗剤や薬品に頼らずメンテナンスができるため,環境負荷を軽減する点からも大きな期待がもてる発明である。
 このように生物が持つ構造や機能,生産原理などからヒントを得て,新技術を開発したり,生産現場に生かしたりする動きが活発化している。これらはバイオミメティクス(生物模倣)と呼ばれており,今回取り上げたカタツムリの殻の例以外にも,実用化されたものがいくつも知られている。例えば,新幹線のパンタグラフはフクロウの羽を参考にすることで,走行時の騒音を大幅にカットした。また別の例としては,蚊の口器から痛覚を刺激しない注射針が開発されている。


 生き物の持つ不思議な能力について,その仕組みを明らかにし科学的な説明を用意することは研究者の仕事かもしれない。しかし,そうした解明の最初の一歩は,身近な生き物の持つ力に着目し「なぜ」「どうして」と感じることから始まる。発芽前の科学のタネは,いつも私たちの目の前に転がっている。
 梅雨の日にカタツムリを見かけた際には,愛嬌のある姿を眺めるだけではなく,別の視点から眺めてみてはいかがだろうか。あなたの小さな発見や気づきが,新たな科学の扉を開くかもしれない。

 

(いわた・やすゆき 公益財団法人文化財虫菌害研究所)


【参考文献】

 石田秀樹,2009.自然に学ぶテクノロジー.東京,化学同人.
 武田晋一・西 浩孝,2015.カタツムリハンドブック.東京,文一総合出版.
 細 将貴,2012.右利きのヘビ仮説.神奈川,東海大学出版会.